モンペリエ大学での研修 | 表紙に戻る 語学研修のトップ 前頁 次頁 |
![]() 1977年4月。私と友人は夏期講座の準備にとりかかりました。 まずはフランス大使館に行って、フランスでの語学講座の一覧が載っているパンフレットをもらうことから始まります。大使館員の冷たい対応には少なからずショックを受けましたが、そんなことにめげてはいられません。 ![]() フランス語で書かれたパンフレットを解読し、どこの講座にするかを決めます。トゥールにするか、モンペリエにするかでちょっと悩みましたが、結局モンペリエにしました。 モンペリエにした理由は、週末のエクスカーションのプログラムが魅力的だったことと、3食付きで食費・寮費・エクスカーションの費用がすべて込みだったので面倒くさくなさそうだったからです。 いよいよ大学に資料請求の手紙を書かなければなりません。 上級生からもらった書式をほとんどそのまま使いました。 モンペリエに出した方は手元に残っていませんが、トゥールに出そうかと思って結局出さなかった方が残っていたので、ここでご紹介しましょう。 なお、フランス語のアクサン記号は文字化けする恐れがあるので、アクサンテーギュが付いた文字は赤で、アクサングラーブが付いた文字は青で、アクサンスイルコンフレックスが付いた文字は黄色で表示します。
<日本語訳=私は貴校の講座を受講したいので、 航空便で1977年度の夏期講座のパンフレットと受講申込用紙・滞在先申込用紙を送ってください。国際返信切手券を5枚同封します。どうぞよろしくお願いいたします。> 国際返信切手券が何枚必要なのか、友人と私はちょっと悩みましたが、適当に多めでいいだろう、ということで5枚同封しました。
この後、届いた書類を解読し、手続きをしていきました。またもや辞書と首っ引きで。 格安航空券の手配に関しては、学生なら「生協」という力強い味方があります。でも私の大学にはなぜか「生協」がなかったのです。しかたなく、たまたま友人が知っていた旅行会社に頼みました。大韓航空でも25万円しました。(なんて高かったんだろう!) このとき、旅行会社の人に「旅行の予算としては1日1万円みておけば大丈夫」と言われたのを覚えています。 今だって1日1万円あればけっこうな旅ができます。すべては円が強くなってくれたお陰です。感謝感謝。 パリの最初の2泊だけホテルを予約して、すべての準備が終わりました。 ![]() ![]() 生まれて初めての海外での学生生活となると、見るもの聞くものすべてが楽しく、また、比較できる他の体験がありませんので、客観性に欠ける傾向があります。なるべく思い入れを排し、皆様の参考になりそうなことを中心に述べたいと思います。 ![]() モンペリエは南欧の香り漂う魅力的な町ですが、私たちはほとんど町に出ることはありませんでした。 それは私達の寮と校舎のある大学キャンパスが町から遠く離れていて、バスの便も悪かったからです。たぶん日中は1時間に1本あるかなしかだったと思います。私よりも10年くらいあとにモンペリエ大学の語学講座を受けた人に訊いたところ、事情は変わっていなかったそうなので、恐らく今も同じでしょう。 学食で3食出るのはありがたかったですが、なんと日曜日は学食が休みでした。しかたなく、町のレストランに行ったこともありますが、 夏の炎天下を延々歩くのはハードでした。 ![]() 私たち以外の日本人は個人で来ている人は数人程度でしたが、思いがけず引率者付きの研修ツアーの人たちが20人くらいて、私たちは軽い失望を覚えました。彼らはなんとなく固まって行動することが多かったように思います。私たち2人はイタリア人の女子高生の2人組とつるんでいました。 大学の寮には台所もあったので、彼ら(彼女ら)はよく自炊していたようです。確かに自炊すれば学食が閉まっても困る事はありません。「でも3食分の料金を払いこんであるのに、わざわざ自炊するなんてもったいない!」というのが私の正直な気持ちでした。第一、ろくに料理なんてできないし・・・ ![]() ところが「3食付き」にはもう一つ落とし穴があったのです。それは量が多すぎるということです。最初のうち、私と友人は「こんなに食べられないわ」と言い合っていたのですが、胃袋というものはすぐに大きくなるものなのです。なまじ、学食の食事がおいしかったのもいけませんでした。研修を終えてイギリスに渡った私は、かの地を歩きながら、いまだかつて味わった事の無い違和感を覚えました。それは 「股ずれ」というものでした。その状況は旅行中ずっと続き、帰国後は体重を落とすのにずいぶん苦労したのでありました。 国籍はイタリア・ドイツが多く、その次が日本人でした。「日独伊」だなんてすごい組み合わせだな、と思ったものです。すぐお隣のスペインからの人はごく少数でした。当時まだスペインがフランコによる軍事独裁政権だったためでしょう。 ![]() そして、フランス語講座にはフランス人がいない!このあたりまえすぎる事実に気がついたのは、なんと、現地に行ってからなのでした。この1ヶ月間に知り合ったフランス人は、先生を除いたらたった1人です。その人はモンペリエ大学の女子学生で、夏休みも実家に帰らず寮で勉強していたのでした。 1クラスの人数は12〜13人程度。初級に日本人が多く、上のクラスにいくと少なくなりました。中級レベルでは日本人は平均3〜5人くらい。上級ならゼロ。 それでも8月前半はまあ良かったのです。8月後半にまた生徒が加わり、1クラスの人数が増えました。私たちは陰で文句を言っていました。 ここの講座の目玉はやはり毎週末のエクスカーションなのでしょう。そのプログラムは今思い返しても最高でした。 ![]() アビニヨン、アルル、ニーム、カマルグ、レ・ボー、ポン・デュ・ガール、ドーデの風車・・・南仏の一流観光地に連れて行ってもらい、堪能しました。 そう言えば、エクスカーションの途中で皆とはぐれてしまい、自分で電車に乗って帰ってきた日本人の女の子がいました。バスを降りてぞろぞろ見学するときの列はめちゃくちゃで、途中で途切れることもしょっちゅうでしたし、再びバスに乗り込んだときに点呼するわけでもないのです。引率してくれるとは言っても、日本式の「オンブに抱っこ」とは違うのだなあと思いました。 なんやかや言っても、地中海で海水浴 もできるモンペリエでの研修は、「青春」という時期にふさわしいものだったと思います。 |