2004年7月29日、エールフランス機に乗りました。 機内で配られた28日付のフランスの新聞「フィガロ」を見ると、、、ぬあんとポーツマスの紹介記事が載っているではありませんか! 私はタイミングの良さに感動し、その新聞を大切に持って帰りました。 英国海軍の聖地を、 フランス人がどのように見ているのかを知りたい方(そんな人いるのかなあ・・・)のために、その内容をご紹介します。 とはいえ、私は船のことも、ネルソン提督のことも、英国海軍のことも、 ほとんど知らないのです。そんな奴が翻訳するなんて、 神、もとい、提督をも恐れぬ暴挙かもしれません。 誤訳があったらごめんなさいです。 |
ポーツマス:慈愛深き陛下にお仕えする港ポーツマスには矛盾がある。が、 そんなものは問題にならない。 この港は60年前、ノルマンディー上陸大作戦の際の乗船地だった。けれども、 英仏協商が結ばれるまで、 両国間には 数知れぬ戦いが繰り返され、ポーツマスはその間ずっと、重要な役割を果たしてきたのだった。 今年は英仏協商締結100周年にあたり、 先日、その祝賀行事が行われたばかりである。 海の向こうからイギリスを攻撃しにやってくる艦船との、絶え間無い戦いを通じて、 この地は18世紀以降、世界最大の軍需産業の拠点となった。そして 200年後、ポーツマスの諸設備は、大王訳注をうち砕き、フランスを救うために使われることになる。 訳注: ヒトラーを指す。 ネルソン提督の存在は、 ポーツマスのすみずみに及んでいる。 彼の旗艦ビクトリー号は美しく修復されており、その艦尾甲板には、 1805年10月21日に彼が倒れた場所が示されている。 トラファルガー海戦の勝利者となったネルソンは、 ナポレオンの艦隊を敗走させて間もなく、腕利きの狙撃兵の銃弾を受け、致命傷を負った。 ガイドの語るところによると、彼の遺体は (ウィスキー漬けではなく)コニャック漬けにされて、 英国に運ばれ、国葬に付されたそうだ。 ポーツマスが海軍とともに歩んだ豊かな歴史は、町の中心地に色濃く現れている。 その界隈だけでも、 英国海軍に関する驚嘆すべき博物館の様相を呈している。 現在もなお現役である海軍基地内の、歴史的なドック(Historic Dockyard)を見れば、 半世紀にわたる歴史の中に身を置いた気分になれる。 ポーツマスには、矛盾がもう1つある。 この港町の発展は、 1495年、 世界初の乾ドックを掘って作るという、泥臭くてつまらない作業から始まったのである。 このドックのおかげで、船を座礁させた形で修理するということが可能になった。 それ以前は、潮の干満に任せて、船を横向きに座礁させるという方法がとられていたのだが、 そのやり方だと、船体が破損する危険性があった。 1510年、ポーツマスの造船所にメアリー・ローズ号の竜骨が置かれ、建造が始められた。 そしてここは王国の造船所として、公式に認められるようになったのである。 ヘンリー8世の旗艦であったメアリー・ローズ号は、1545年、 ソレント海峡訳注で 沈没した。砲門が閉じていない状態で船体が傾いてしまったらしい。 この船が引き上げられるためには、1982年を待たねばならなかった。 その引き上げ事業の一部始終は、博物館で上映されている記録映画で観ることができる。 船体を損なわずに引き上げるということは、 あまたの先端技術の手助けなくしてはあり得なかった。 現在、メアリー・ローズ号は、水・溶解性の蝋・不凍液に浸った状態で保存されており、 当時の造船技術の粋を楽しむには、多少の想像力を要する。 それよりももっとわかりやすいのは、 船体とともに引き上げられた、乗組員たちの所持品である。 400年間、海底の泥の中に埋もれていた、1900にのぼる品々が、チューダー王朝の頃の人々の暮らしぶりを偲ばせてくれる。 訳注: 英国本土とワイト島の間にある海峡のこと 19世紀英国海軍の華であるビクトリー号は、 最近の船に見えてしまう。 この時代の強力な戦艦の登場は、ナポレオンにとって、終わりの始まりを告げるものであった。 ここに、トラファルガーの海戦によって象徴される、 英国海軍の不敗神話が生まれることとなる。 世界で最も名高い軍艦の1つである、 この3本マストの帆船を見学すると、 当時、どのような状態で戦闘が行われたのかがよくわかる。 821人の乗組員が6層の甲板を共有していたのである。 見学者は、遅かれ早かれ、頭を船梁にぶつけて、 船上生活の狭苦しさを実感するはずである。 ネルソン提督の 居住部分(居室・食堂・寝室)は豪華なものである。 公然たる愛人関係を結んでいたレディ・ハミルトンを、うやうやしく迎えることができたわけだ。 甲板には、彼がトラファルガーで指揮をとっていたときに、敵に撃たれて倒れた場所を示すプレートがある。 彼はそれから2時間45分の間、船室で苦しむことになる。フランスとスペインの船を15隻拿捕したと知らされたとき、彼は「よかろう。だが、20隻の予定だったのだ」と言った。ロンドンでの盛大な葬儀の後、彼の遺体はセント・ポール寺院に埋葬された。その棺は、ナイル海戦の際、アブキール湾で大破した仏旗艦オリアン号のメインマストで作られた。 ビクトリー号のような船を造るには、40ヘクタールの森林が必要だった。 「歴史的な港」に並ぶ3つめの大型船、ウォリアー号は鉄と石炭によって造られた。 これは世界初の鉄製の船で、1860年の建造である。 しかし、風が良いときに蒸気機関を援護するために、帆も装備している。 鉄製とはいえ、木材も多く使われており、 特に装甲板には、錬鉄にはさまれた形で大きなチーク材が用いられている。 500年の歴史を物語る、この海軍公園地域は、子供には退屈かもしれない。歴史的なドックの域内にある王立海軍博物館には、 歴史の舞台をもっとわかりやすく表現した 参加型の展示物があり、こちらは 子供も楽しめるだろう。 戦闘シーンのジオラマを見れば、歴史の教科書に書かれていることを、さらに深く理解することができるだろう。 たとえば、風の強さと向きが、 戦闘の勝敗を左右する というようなことが、よくわかるはずだ。 ヨットレースにおいても同じであるということも。 |
※参考までに、原文の冒頭部分をこちらに紹介します。 |
フランス人にとっての英米お急ぎの方はこちらへ 1940年から1944年までの間、フランスは ナチス・ドイツに占領されていました。つまり、 第二次世界大戦中の大半の期間、ノックアウト状態だったのです。 そんな国が戦勝国になっちゃったんですねえ。でもまあ、 国はヘタレだったけど、国民は頑張ってました。ナチスに対する抵抗運動「レジスタンス」を、地下でしぶとく続けていたのです。 そんなフランスを解放したのは米英連合軍でした。 フランス北岸のノルマンディーから上陸したので、 「ノルマンディー上陸大作戦」と呼ばれ、往年の名画「史上最大の作戦」でよく知られています。 作戦が敢行された1944年6月6日のことを、英語では"D-Day"(=dayの中のday=いちばん重要な日)といいますが、フランス語では"Jour J"(ジュール・ジー)といいます。jour=dayなので、まったく同じです。 当時のことをフランス側から描いた映画としては、 ルネ・クレマン監督の「パリは燃えているか」があります。フランスやパリに興味のある方必見。 特に強い興味を持っていない人も、 「ひえ〜、パリにはこんな歴史があったのか!」と驚きながら楽しめるはず。 残念ながら、日本で手に入るビデオは英語吹き替え版で、 アラン・ドロンを始めとする、当時のフランスの超有名俳優陣が、みんな英語喋ってるのががっかりなのですが、それでも十分に面白い。 フランス人というと「なんでもフランスがいちばん」と信じる国民だと思われがちかもしれませんが、 「ナチス・ドイツから自分たちを救ってくれたのは英米だ」という意識は強いようです。(それがまた癪のタネだったりするのかもしれないけれど。。。) フランスの歌手ミシェル・サルドゥーの持ち歌"Les ricains"(1967年)の一部をご紹介します。アクサンは省略してあります。
ミシェル・サルドゥーはどっちかというとアイドル歌手(今や「元」アイドルだけど)であって、 決して政治思想の勝った歌い手ではありません。 その彼が歌うぐらいなのですから、 (ある程度年をとった)フランス人の中には、同じような思いを抱いている人が少なくないのではないでしょうか。 |
ランサマイトの皆さん、お待たせしました!
ここでようやくランサムに関係ある話が出てきます。ほんのちょっぴりなんですけどね(^^;;
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