黒く静まり返った水面いはさざ波ひとつない。谷の底部一杯に拡がっている。湖の上にそびえているのはカーデル・イドリスつまり灰色の王の山の裾斜面で、向こう岸、谷の一番奥になるところに、山々の間を通り抜け --- 世の果てに通じているようにも思える --- 道がついていた。
-----スーザン・クーパー作「灰色の王」より
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8月5日。目覚めたとたん、窓から空を見上げたら、 今までになく明るかった。これならカンチェンジュンガに登れそうだ。 登ると言っても、私たちは軟弱なので、村から登る気など当初からさらさらなかった。 ましてや、今日は最終日。夕方にマンチェスターに着いていなくてはならないのだから、無理をするなんてもってのほかだ。 朝食のとき、Wild Gybeさんに、カンチェンジュンガ中腹のパーキングへの行き方を教わり、 東京での再会を約して別れた。
チェックアウトするとき、TitmouseさんがARCの友人に頼まれたと言って、BGFオリジナルポロシャツ(15ポンド也)を買っていた。それは目のさめるような真っ青で、 私には全く似合わないということが一見してわかったので、最初のうちは買おうなどとは思いもしなかった。それなのに、他の人が買っているのを見ると、どうにも我慢ができなくなってしまう。ほんとにオバカな私。 しかもこれは、ちょっと見には薄手で涼しそうだが、材質は綿100%ではなく、ポリエステルが65%も入っていて、 言うなれば、完全なる「イギリスの夏」仕様なのである。 この後のフランスの旅の途中で試しに着てみたら、あまりにも暑くて死にそうになった。 そして、洗濯したら水が青く染まった。 このポロシャツ、(たとえ青がよく似合っても) ランサム・オタク以外には、とてもお勧めできない。 BGFに別れを告げ、コニストン村へ向かう。 船着き場の近所まで行った 後、 Wild Gybeさんに教えられたとおりに行くと、 牧草地の中の1本道になった。そこをしばらく走ると、パーキングがあった。 昨日までよりは天気がいいと言っても、カンチェンジュンガは相変わらず霧の中で、「灰色の王」の顔をしている。
10時半に歩き出す。 最初のうちこそ、牧草地の中のだらだらした登り坂だったが、次第に瓦礫の道に変わった。 間もなく、 採石場の跡の脇を通り過ぎ、このあたりから、きつい登りになり始めた。 幸いなことに、今日は足元の石は乾いているが、それでも相当歩きにくい。 雨が降ったら滑りやすくて怖いだろう。 私は間もなくゴアテックスのジャケットを、そして長袖シャツを脱いだ。 最初のうちは、ちょっぴり愚痴モードに入りかけていたナンシイ船長@ 岬ちゃんは、だんだんやる気が出てきたようで、気が付くと、遙か先を登っていて、 あっと言う間に豆粒のようにしか見えなくなってしまった。その身の軽さに、オバサンたちは舌を巻くばかりである。
岬ちゃんにおいてきぼりにされた 私たちは、無理をせず、ゆっくり休み休み登った。 ミネラル・ウォーターのボトル1本を手に持った、タンクトップに短パン姿のイギリス人たちに、どんどん抜かされていく。 りんごやパウンドケーキまで持ってきている私たちって大げさなのかしら? とにかく、イギリス人にとって、このオールド・マンという山は、ごくごく気軽に登れる山であるらしい。 彼らは非常に軽装であるが、山登りの基本中の基本装備、つまり靴だけは登山用のしっかりしたものを履いている。 それに対して、私が履いているのは、いつもの旅のお供であるランニング・シューズ。 うーん、いかんなあ、いつも「足元を固めるのが旅の基本です」なんて偉そうなこと言ってるくせに、、、と後悔しても後の祭りである。
急坂をぜいぜい言いながら登っていくと、
やがて坂がなだらかになり、
前方に、池と言ってもいいぐらいの小さな湖が見えた。
湖畔にはひと休みしている人たちがたくさんいる。
さらに近づいて見ると、その湖は、
ゴロゴロ転がるとそのまま水に落ちてしまいそうな斜面に囲まれていた。こっ、これは・・・! 私たちの口から出た言葉は、
それぞれ少しずつ違っていても、内容は同じだった。
実際、「佳き湖」と呼ばれても何の不思議もないくらい、神秘的で、ほれぼれするほど美しい湖なのである。私は感嘆しながら、どうしてランサムはこの湖のことを何も書かなかったのだろうかと不思議に思った。 ここを中継キャンプにすればよかったのに・・・ と考えていくうちに、ランサム・サガの中には、そもそも、 景色の美しさを描写する文章自体が欠けているということに気が付いた。ランサムにとって、湖水地方の美しい自然は、あまりにも日常的で見慣れたものだったのだろう。それに、ランサム・サガにおける自然というのは、あくまでも冒険や探険の対象であり、賛美の対象ではないのだ。もしもサガの中に自然賛美の文章がちりばめられていたら、却って印象が散漫になり、読むに耐えないものになってしまっていたかもしれない。 |
「ぼくがあける。」といって、ロジャがふたをとった。中には、折りたたんだ紙が1枚と、ヴィクトリア女王の肖像を打ち出したファージング銀貨が1枚はいっていた。
-----アーサー・ランサム作「ツバメの谷」より
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私たちはしばしの間、「なんちゃって佳き湖」を眼下に見下ろせるポイント で涼んだ。それから、 意を決して再び登り始めた。
間もなく、ゆきみさんが歩みを止めた。
「ここまで来て登らないなんてもったいない」と、口で言うのは簡単だが、 ゆきみさんにとって、これが生まれて初めての山登りだったのである。 この私ですら --- というほどのものではない。 なにしろ、海抜600メートルの高尾山に3回登ったことがあるという程度なのだから --- へばっているのだから、 ゆきみさんがダウンするのも無理はない。むしろ、ここまでよく頑張ったと言うべきだろう。 Titmouseさんと私は、岩に腰を下ろしたゆきみさんにろくに声もかけずに、登り続けた。正直なところ、自分のことで精一杯で、 他の人にかまっている余裕なんか無かったのである。
傾斜はさらに急になった。目の前の岩に手をついて、四つんばいになって這い上がらなければならないところもあった。 頂上に登り着いたとき、私は 気弱モード全開の状態だった。 時計を見ると、12時10分。 「中腹のパーキングからカンチェンジュンガ往復は3時間」と聞かされていたのだが、私たちでさえ、片道1時間40分で登れたのだ。 所要時間という点から言えば、カンチェンジュンガは楽な山なのだろう。でも、「時間がかからなくても、肉体的にきついということはあり得る」ことの証拠みたいな山でもある。
霧はかなり薄くなったとはいえ、
まだまだ晴れないので、
真西にマン島が見えるどころか、
コニストンすら見えないのが残念だ。
でも、天気を恨んでもしかたがない。
登れただけでも御の字なんだし、というわけで、
ケルンの前で「バンザイ!」をしている写真を、Titmouseさんと撮り合った。
ケルンの前でりんごをかじり、
パウンドケーキを食べているうちに、
ほてった身体は急激に冷めていった。
長袖シャツを着込み、さらにゴアテックスを羽織って、
吹き上げる霧を見つめながら、
ゆきみさんはどうしたかなあと思っていると、
たった今登り着いた
イギリス人の中年男性が、話しかけてきた。
驚異的な回復力で登頂を果たしたゆきみさんが、りんごとパウンドケーキを食べて涼んでいる間に、
私は下山する前にしなくてはならない、あることの準備を始めた。
取り出したのは100円ショップで買った、小型の密封容器と、同じく100円ショップで買った、ビニールの小袋。この袋も密封できるタイプである。
それから、旅日記用のノートの、何も書いていないぺージを破り、ボールペンとともに岬ちゃんに手渡した。
1時頃、下山を開始。予想通り、下りは下りでかなりハードだった。でも、キリストのように復活してきたゆきみさんは、私よりもずっと元気だった。 かなり下ったところでようやく、コニストンの細長い姿が、霧を通してぼんやり見えた。 中腹のパーキングに戻り、車に乗ってコニストン村まで下り、トイレを済ませて3時に出発。あとはひたすらマンチェスター空港を目指すのみである。
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スーザンは、目がふさいでしまうのに気がついて、気力をふるいおこした。
-----アーサー・ランサム作「ツバメ号の伝書バト」より
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こうして 私たちは湖を後にした。聖地巡礼は終わったのだから、ここで筆を置くべきなのだろうが、 今少しの間、おつきあい願いたい。
山から下りて、休む間もなく
湖水地方を出て、高速に乗った私たちは、消耗しきっていた。そんな私たちが睡魔に襲われたのは、
当然の結果だったと言えよう。
しかも、今回の睡魔は、
歌を歌うぐらいで吹き飛ぶような、やわな代物ではなかった。
財布に残っていたポンドを使って、空港内のパブで飲んだエールの味は格別だった。ほんとうは山からコニストン村に下りてきたとき、すぐに乾杯したかったところなのだが、これ以上贅沢を言ったらバチが当たるというものだろう。 エールフランスでパリに飛び、そこで、 帰国するTitmouseさんと岬ちゃんと別れ、 私とゆきみさんは、ブルゴーニュのワイン街道に向かった。 このフランスの旅もかなりオタクな旅だった。ある意味において、このクーパー&ランサム聖地巡礼よりマニアックな旅だったとも言えるのだが、児童文学とは無関係であることだし、ここではこれ以上触れないでおこう。 * * * * * * * * * *
私たちがコニストンを去ってから約2週間後、 hazel twigさん一家がこの地を訪れ、雨模様の中、カンチェンジュンガに挑み、登頂を果たした。そのさらに数日後、やはり雨をついて登山を敢行し、世界の屋根に立ったのは森帆さんだった。 彼らは、ボブ・ブラケットとターナー姉弟がマッターホルンのケルンに残したメッセージを見つけたロジャのように、私たちの残したものを見つけ出し、署名を残していった。 ランサム・サガを愛する人たちによる聖地巡礼の歴史は、これからも続くことだろう。 この次に署名するのは、この旅行記をお読みの あなたなのかもしれない。<完> |